Endless Summer

日記や本の感想など

ジム・ジャームッシュ 日常の中にある放浪

旅行で一番好きなのは移動時間かもしれない。移動している間、自分はある地点から別の地点へ向かう途中にいる。飛行機でも車でも、移動中はどこでもない場所にいるのだ。どこへも着いていないから、好きなことを想像できる。プレゼントの箱を開ける前のような時間だと思う。これから向かう場所には、自分を感動させてくれる何かがあるかもしれないと思うことが出来る。着いてしまえば良くも悪くも答えが出てしまう。箱を開けて何が入っていても、開ける前の高揚感は戻ってこない。それを得るには、またどこかへ移動するしかない。

ジム・ジャームッシュの映画には移動シーンが多く出てくる。ナイト・オン・ザ・プラネット(原題 Night on Earth)ではほぼ全編がタクシーの車中で展開される。どこかへ向かう途中で起きる人間模様を見せるのが上手い監督だ。人間模様といっても特に何が起きるわけでもない。生き別れた兄弟が出会ったり、運命の恋人に出会ったりといった事件は起こらない。登場人物それぞれの日常があり、それらが交わるわずかな時間が描かれる。彼らは私たちが日々しているように、着地点のない雑談を交わす。煙草を吸い、コーヒーを飲み、酒を飲む。映画は虚構だけれども、出てくる人物はリアルで、あまりにリアルすぎて退屈なくらいだ。ある意味ではストーリーらしいストーリーがないとも言える。作中で交わされる会話のように、映画そのものにも目的がない。何となく始まり、何となく終わる。はっきりとした答えや教訓はない。普通の映画であればカットされそうなシーンを描くのがジム・ジャームッシュだ。

この人の映画は短編小説とよく似ていると思う。詩的といってもいいかもしれない。何か目的があって進むストーリーではなく、ただ生活のワンシーンが切り取って出される。それも味付けがされて、見た目を美しくして出されるわけではない。一番美味しい部分だけが出てくるわけでもない。荒い素材の塊が生のままどん、と目の前に置かれる感じだ。簡単には咀嚼できない。はっきりとした味のしないよく分からないものを黙々と噛んでいると、シンプルだが忘れられない味がしてくるのだ。そういう映画は時に見た人を少し変える。ミステリー・トレインを見て以降、何気ない瞬間に、「この時間にどこかで、同じように人が生活をしている」とふと思うことがある。日常というのはどうしようもなく退屈だけど、尊いもののようにも思える。特に何の役にも立たないかもしれないが、その気持ちは確かにジム・ジャームッシュの映画から(少なくとも一部は)得たものだ。何でもない生活の中にある小さな、何か良いものを見せてくれる監督だと思っている。